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鳥人間コンテスト

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2022.08.31

鳥人間コンテスト

毎年八月になると彦根市の松原で、「鳥人間コンテスト」選手権大会が行われます。
彦根の松原水泳場の北の端の浜辺に毎年七月中頃から設営が始まりスロープと、プラットホームのようなものが出現すると、いよいよだという感じがして、ワクワク感が高まります。

鳥人間コンテストとは

鳥人間コンテストは、イギリスで昭和46年(西暦1971)に、イングラアンドの南の海岸のボグナーリージスの海岸保養地で、『InteranationalBognorBirdman』として始まりました。世界中から挑戦者が集まります。日本の鳥人間コンテストの基本ルールはこのイギリスのものを参考にしています。ただ、日本とは異なる趣があって、様々な格好をした人たちが、腕をバタつかせながらジャンプ台から飛び立って、落ちるというようなものがあり、これは慈善事業のためにも行われています。

鳥人間コンテストの沿革

鳥人間コンテストは、正式には「鳥人間コンテスト選手権大会」と言い、滑空飛行機、人力飛行機の滞空距離や飛行時間を競う大会です。
昭和五十二年(西暦1977)読売テレビ主催で、一番最初は『びっくり日本新記録』という番組内の一つの競技として、近江八幡市の宮ヶ浜水泳場で行われ、第一回は『鳥人間コンテスト日本大会』で、今のように人力飛行機ではなく滑空飛行機だけでした。このことはウィキペディアにも載ってないことです。
第4階からは彦根の松原水泳場で行われるようになり、最初の画像のようなプラットホームが設営されるようになりました。
最初は滑空して飛距離を競う「競技部門」だけだっったのが、第二回から「コミックエントリー部門」が増え、第10回からは競技部門が「滑空機部門」「人力プロペラ機部門」に分けられ、「女性パイロット部門」ができ、第25回から「人力ヘリコプター部門」ができ、第28回大会からは滑空部門が「フォーミラークラス」と「オープンクラス」に分けられ、第30回大会からは人力プロペラ部門が「人力ウロペラディスタンス部門」「人力プロペラタイムトライアル部門」と部門がたくさんになって行われるようになりました。

鳥人間コンテストの歴史

昭和52年(西暦1977)、第1回大会を近江八幡市宮ヶ浜水泳場で、『びっくり日本新記録』という番組にの一部として開催される。
昭和53年、第2回大会、読売テレビ開局20周年記念番組として放送される。
昭和55年(西暦1980)、第4回大会、会場を彦根市の松原水泳場に移して開催される。
昭和61年(西暦1986)第9回大会、競技部門を「滑空機部門」と「人力飛行機部門」に分けて開催される。
昭和62年(西暦1987)第10回大会、「コミックエントリー部門」を廃止して開催される。
昭和63年(西暦1988)第11回大会、強風につき人力プロペラ部門が中止になる。
平成元年(西暦1989)第11回大会、人力プロペラ機部門が中止となる。
平成2年(西暦1990)、第12回大会、強風につき滑空機部門が中止となる。
平成9年(西暦1997)、台風9号が直撃し大会史上初めて全ての競技が中止となる。
平成10年(西暦1998)、第22回大会、競技開催を二日間になる。
平成16年(西暦2004)、第28回大会、天候不良につき人力プロペラ機部門が競技不成立になる。
平成21年(西暦2009)、経済状況が悪化し読売テレビがダイジェスト番組の制作を見直し、開催を中止とする
平成22年(西暦2010)、第35回大会、ガスの岩谷産業がスポンサーとなり、に31回大会として開催。
平成29年(西暦2018)、第41回大会、インターネット向けに大会当日のライブ配信を滑空機部門の一部で実施する。台風12号の影響で人力プロペラ部門の競技が不成立になる。
令和元年(西暦2019)、第41回大会、台風6号の影響で、1日目に行うはずだった滑空機部門の一部と、人力プロペラ機部門の一部を二日目にして開催される。
令和2年(西暦2020)、第42回大会、新型コロナウイルス感染症蔓延で、緊急事態宣言が発出され、開催が中止となる。
令和3年(西暦2021)、第43回大会、いつもは認めている応援団の立ち会いを禁じ、無観客で開催される。
令和4年(西暦2022)、第44回大会、3年ぶりに観客も入れての開催となる。

これまでの記録

第1回大会(西暦1977)、滑空機部門 82、44m
第2回大会(西暦1978)、滑空機部門 79、78m
第3回大会(西暦1979)、滑空部機門 88、53m 
第4回大会(西暦1980)、滑空機部門、101、60m
第5回大会(西暦1981)、滑空機部門、95、83m
第6回大会(西暦1982)、滑空機部門、162、62m
第7回大会(西暦1983)、滑空機部門、162、62m
第8回大会(西暦1984)、滑空機部部門、14、51m
第9回大会(西暦1985)、滑空機214、51m、人力プロペラ機290、45m
第10回大会(西暦1986)、滑空機158、38m、人力プロペラ機512、20m
第11回大会(西暦1987)、滑空機176、71m、人力プロペラ機435、56m
第12回大会(西暦1988)、滑空機部門、261、90m
第13回大会(西暦1989)、滑空機部門、225、90m
第14回大会(西暦1990)、         人力プロペラ機1810、54m
第15回大会(西暦1991)、滑空機318、75m、人力プロペラ機500、20m
第16回大会(西暦1992)、滑空機232、08m、人力プロペラ機2019、65m
第17回大会(西暦1993)、滑空機248、31m、人力プロペラ機2180.71m 
第18回大会(西暦1994)、滑空機329、83m、人力プロペラ機2371、65m
第19回大会(西暦1995)、滑空機274、72m、人力プロペラ機8764、00m
第20回大会(西暦1996)、滑空機300、36m、人力プロペラ機9761、56m
第21回大会(西暦1997)、中止
第22回大会(西暦1998)、滑空機364、08m、人力プロペラ機23688、24m
第23回大会(西暦1999)、滑空機345、92m、人力プロペラ機4913、46m
第24回大会(西暦2000)、滑空機256、53m、人力プロペラ機7945、85m
第25回大会(西暦2001)、滑空機417、49m、人力プロペラ機3823、70m
第26回大会(西暦2002)、滑空機414、33m、人力プロペラ機6201、74m
第27回大会(西暦2003)、滑空機414、33m、人力プロペラ機34654、10m
第28回大会(西暦2004)、滑空機420、48m、人力プロペラ機944、11m
第29回大会(西暦2005)、滑空機173、26m、人力ウロペラ機22813、05m
第30回大会(西暦2006)、滑空機370、80m、人力プロペラ機28628、43m
第31回大会(西暦2007)、滑空機258、21m、人力プロペラ機3998、51m
第32回大会(西暦2008)、滑空機483、47m、人力プロペラ機36000、00m
第33回大会(西暦2010)、滑空機421、11m、人力プロペラ機18556、82m
第34回大会(西暦2011)、滑空機314、41m、人力プロペラ機18687、12m
第35回大会(西暦2012)、滑空機501、38m、人力プロペラ機14129、34m
第36回大会(西暦2013)、滑空機460、97m、人力プロペラ機20399、24m
第37回大会(西暦2014)、滑空機407、03m、人力プロペラ機1849、81m
第38回大会(西暦2015)、滑空機337、75m、人力プロペラ機35367、02m
第39回大会(西暦2016)、滑空機443、80m、人力プロペラ機21415、53m
第40回大会(西暦2017)、滑空機440、37m、人力プロペラ機40000、00m
第41回大会(西暦2018)、滑空機446、42m、人力プロペラ機2347、58m
第42回大会(西暦2019)、滑空機327、72m、人力プロペラ機60000、00m
第43回大会(西暦2021)、滑空機451、12m、人力プロペラ機5221、04m

滑空機部民では、501m、人力プロペラ機では折り返す前は36キロも飛行して、彦根から長浜市西浅井町大浦まで飛ぶという大記録を出しました。

まとめ

鳥人間コンテストは、人間がずっと持っている空を飛びたいという望みを叶えたい、どこまで飛べるか試したいという気持ちを表している者で、人間の望みに向かってみんなで協力して作り上げ、練習して体を鍛え、進んでいき結果が出るのであって、そこにはそれぞれの自分の役割を果たす使命感、人を思いやる気持ちによって成り立っているのです。思いやりの心を持つ最初は、生活していて家族に対する思いやりの木もtから育まれ、育んでくれた家族を思うことは、亡くなってからも必要なのでは愛でしょうか。目の前の自分達だけが大切なのではなく、自分がこの世に居させて下さったことを思い大切にすることは、自分を思い大切にすることにつながるのであり、それが望みに向かうことになるのです、「恭敬の会」は、望みに向かって進む、人たちの心の結びつきを大切にすることをお伝えしたいのです。
しかし、それをするのに多大な負担や煩わしいことが無いのがぞましく、恭敬の会の送骨、訪問預骨、永代経、永代供養は、負担も少なく煩わしこともなく、うってつけなのです。

恭敬の会 送骨 訪問預骨

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